911連続テロ6年 ~テロ特措法を考える

 われわれにとっても印象の深い911連続テロ事件から6年。世界はあの事件を契機に大きく変わった。「わずか19名の若者たちが世界最強の米国の方向を変えてしまった」とするオサーマ・ビン・ラーデンの最近の発言は、あながち誇張ではない。ここでは、911日をまた迎えるにあたり、911連続テロの後の世界と現在与野党間で焦点になっているテロ特措法(平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法)について論じることとしたい。

911連続テロは許すことのできない凄惨な犯罪行為である。しかし、現在から911を振り返る時、その後の「対テロ戦争」と名付けられた政治的動きから離れて911連続テロの歴史的位置づけを語ることはできない。その一方で、911以降の対テロ戦争の流れは、さまざまな意味で矛盾をはらんでいた。

第一に、国際法的な意味合いでの矛盾がある。911連続テロ事件はそもそも、犯罪組織による大量殺りく行為であり、国内法で刑事事件として裁かれるべき問題である。それにもかかわらずブッシュ政権は、これを直ちに米国に対する「戦争」と断定し、報復を表明、「予防戦争」としてアフガニスタンとイラクに戦争を仕掛けたのであった。刑事事件として国際協力を求めるのであればいざ知らず、これを「戦争」にし、しかも国際法では認めらないとされる「予防戦争」を遂行したことに国際法的な矛盾が存在している。安保理決議1368号に始まる対テロ非難諸決議が米国によるアフガニスタン攻撃を正当化するかについては、疑問が多い。そもそも、その後の1377号、1378号においても、911テロが「武力攻撃」に相当するかについての見解表明は避けられているのである。

第二に、国際政治的な意味合いでの矛盾がある。近代社会においては、国家が暴力を独占する。911テロは国家ではない組織による正当化できない暴力の行使であり、近代国家全体に対する挑戦でもある。米国においては、国家が暴力装置を統治機構の下に置くべきであり、国際社会においては、テロ行為を撲滅するための支援体制を構築すべき問題である。しかしながら米国は、自国と関係が悪い国々を「悪の枢軸」と名指しにし、カーイダと関係が証明されないイラク政権をも転覆させ、国家が独占すべき暴力をテロリストの手に渡す環境を作り上げたといっても過言ではあるまい。近代国家のルールが捻じ曲げられた戦争の後、イラクが収拾のつかない混沌に陥ったことはよく知られている。それでもなお米国は、最近になって国家組織であるイランの革命防衛隊を「テロ組織」に指定している。しかしながら、冷戦以降の米国主導の「国際秩序」において、「テロ戦争」は不可欠のパーツになっていた。ブッシュ大統領が明確に表明した通り、テロ戦争を支援する国は味方で、それ以外は敵とされたのである。唯一の超大国が作り上げたこの流れに逆らう国はほとんどなく、多くの問題が存在することが指摘されながらも、多くの国が、政治的判断を余儀なくされ、国益に沿った対テロ戦争支援を実施していったのではないか。

第三に、文明的価値観の問題が存在する。911連続テロ事件は、複数の個人の犯罪であり、その罪は個人に帰するはずであるが、それはいつの間にか、対テロ戦争という文脈の中で価値観にまで高められた。ブッシュ政権は、テロは民主的価値観を共有しない側で起きると主張し、中東に民主主義を拡大する重要性が強調された。民主主義は民意を反映することに他ならないが、国民の自主的な選択とはかけ離れたところで政権が潰された。米国は、対テロ戦争を支援する側と敵に分類すると明言し、民主主義の側に立つものと反するものに峻別するとしたが、選挙すらない親米国家がしばしば民主国家の側にあると評価され、911テロを批判し、一定の民主主義的システムを有するイランのような反米国家は非民主的とされた。さらにひどいことに、この価値観はしばしば、文化的・宗教的対立と同化した。テロはイスラーム世界の所産と理解され、文明間の対立があおられる傾向を伴った。911テロの悲惨さは、確かに感情を揺り動かすものではあったが、それは大衆の中に、文明的価値観を伴う非寛容的な敵対心を植え付けるものにすらなり始めた。

 

このように、911連続テロ事件は、大別して三つの大きな問題をもたらすきっかけとなったように思われる。そしてこれらの根本に存在する問題解決がないままに6年が経て、米国主導の対テロ戦争は、蜂の巣を叩くがごとく、問題を噴出させているように見えてならない。この対テロ戦争が抱える問題は、米国自身を含めた各国に否定的な影響を与えているように思われる。日本もまた、この6年間放置された問題の結果として、政治的混乱に直面している。

 

来る111日には、テロ特措法の期限が切れる。テロ特措法の延長については、与野党の主張が真っ向から対立しているが、この対立の根源にも911テロ以来の対テロ戦争が抱える矛盾が深く関係しているように思われる。

民主党はテロ特措法延長に反対している。小沢代表は、日本はテロとの戦いを支援し、国際貢献も重要と考えるが、自衛隊の派遣には明確な原則が必要であり、国連がオーソライズしたものに対してはこれを支持するとしている。他方で安倍総理は、テロ特措法は国連安保理決議に基づいているが、本法に基づく自衛隊による海上給油活動は、テロとの戦いに参加している国々にとり不可欠であり、総理として全力を傾けて継続に努力するとしている。

この両者の溝が埋まらない場合、参議院の承認が与えられないままに、現在のテロ特措法の期限が切れて、自衛隊部隊が撤収に追い込まれる見込みが強い。この両者の主張の差は、ある意味で対テロ戦争が抱える矛盾の延長線上にあるように思われる。小沢一郎氏はかねてから、国連に日本の自衛隊をゆだねて、日本の安全をも保障しようという主張の持ち主であり、国連の承認が得られない限り、自衛隊部隊を出さないとする説には一貫性がある。ところが、対テロ戦争が国際法上の問題を多く抱える概念であるとすれば、国連の安保理決議が911テロを「武力攻撃」と断定し、「戦争」を正当化するはずもない。その一方で、政治的な矛盾にもかかわらず、冷戦以降、米国中心の「国際秩序」への貢献を選択してきた自民党政権としては、対テロ戦争を支持するためには、白紙委任状とまでいかずとも、テロ特措法に基づく海上自衛隊の給油活動を政治的判断で継続せざるを得なくなる。

 

個人的な意見としては、以下の理由から、海上自衛隊部隊の派遣は継続すべきと考えるが、そのためには現行のテロ特措法ではなく、新たな枠組みを作るべきと考える。

  日本の冷戦以降の外交的選択に鑑みれば、政治的判断に基づく日米同盟支援は必要であり、対テロ戦争に貢献せざるを得ないであろう。その際に、これ以上の評価を受け、且つ比較的安全である手段は多くないはずだ。

  911は警察権により扱われるものという議論を突き詰めると、自衛隊は派遣できなくなろうが、その代りにたとえばアフガニスタンに対する地域復興チーム(PRT)に文民警察官や技術者を派遣することになると、安全上のリスクが極めて大きくなる。

  小沢氏の問題提起は、日本政府が極めて重く受け止める問題であり、国民に対し、広く議論の場を開いておくことが重要で、911以来の国際社会への日本の関与の在り方を問いかける必要がある。

  現在のテロ特措法で派遣されている部隊の活動は国民に透明性がなく、2003年の対イラク戦争の際に、オマーンに海上自衛隊部隊が立ち寄っていた必然性等について説明がなされていない。自衛隊による貢献を継続するとしても、それは、現在の国際社会の矛盾を積極的に是認し、米国に対して白紙委任状を与えるようなものであってはならず、国会による事前承認および政府による説明責任の徹底が不可欠と考える。

  テロ特措法延長と引き換えに、すでに役目を終えたとすら考えられるイラク特措法に基づく航空自衛隊派遣は終了させ、リスクの回避をしながら、日本の貢献の原則を明確にすべきである。なお、現在のイラク特措法の問題については、小生のブログhttp://tikrit.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_1e4e.htmlおよびhttp://tikrit.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_70a2.htmlを参照いただきたい。