ブッシュ政権の対イラク戦略見直しについて
平成18年1月12日
大野元裕
11日、ブッシュ大統領が「新イラク政策」を発表した。その概要は以下のとおりである。
米国の対イラク新政策 | |
増派 | バグダードに5個戦闘大隊を1月15日より30日ごとに5月15日まで順次増派。 |
アンバール県に海兵隊最大4000名を二回に分けて増派 | |
増派のために56億ドルの追加予算を要求 | |
イラク治安部隊に対し、アドバイザーを派遣 | |
イラク軍の訓練と整備 | |
経済支援 | PRTを従来の倍に拡大 |
部隊司令官用の緊急復興対応予算拡大 | |
復興担当責任者の任命 | |
イラクの義務 | 復興資金に100億ドルを割り当て |
バグダードに宗派・民族構成の三個大隊を派遣 | |
宗派・民族を問わずあらゆる過激派を掃討する | |
すべての地域、宗派・民族に平等なサービスを与えるために内閣を改造する | |
バグダードに治安部隊を展開させ、司令官を任命 | |
イラクが義務を履行しなければ、米国の支援は得られなくなる | |
域内諸国 | シリアならびにイランに対し、建設的な協力を呼びかけ |
目標 | 11月までに治安権限委譲 |
国民全員に石油の富を分配するような法律の制定 | |
バアス党排斥政策見直し | |
年内の地方選挙実施 | |
憲法の見直し |
ブッシュ大統領がイラク政策の失敗の責任を認めたことから、米国の対イラク政策が大きく転換したとの印象を受けた人もいるかもしれないが、その中身は新味を欠いている。
特徴としては、早期撤退を可能にするためとして米軍攻撃部隊の増派を決定したこと、PRTの拡大を表明したことにあろうが、他は、昨年に発表されたベーカー=ハミルトンのイラク研究グループ(ISG)報告よりも相当後退したものとなっている。ISG報告と比較すると、米軍駐留部隊撤退については時期を明言しておらず、イラクの段階的正常化プロセスについてはほとんど触れず、カギとなる隣国イランならびにシリアについては、関与政策を推進するのではなく圧力行使に転換されている。
ラムズフェルド元国防長官が更迭決定後に自戒をこめて述べたように、イラクに対処するためには、政治・治安・復興が同時並行的に実施される必要があるが、政治については具体論に乏しく、経済復興については、地方復興チーム(PRT)および現地司令官の緊急対策費にその多くが流れる治安優先策となっている。この意味では、従来の米国の政策が大幅に転換したとは言えまい。
撤退を早期に実現するための21500名程度の増派が言及されたが、これは、ラムズフェルドが主張してきた近代におけるハイテク兵器に支えられた清栄による戦争理論に対し、米軍内でくすぶる不満に対応するという意味合いを含んでいるであろう。
米軍の増派だけで問題の解決はない。米軍の集中的運用については、2003年夏の第三機甲師団による掃討作戦の成功例と昨年夏の増派された部隊によるバグダード掃討作戦の失敗が対比できよう。前者については、武装勢力という明確な相手に対し、市内の高い建物を破壊する等の徹底的掃討作戦を行い、その後、4000名を越える精鋭部隊をティクリートに駐留させたことにより、評価すべき成功がもたらされた。後者については、宗派・民族対立の中で適を特定するのが困難であったことに加え、イラク国内政治上の制約の下で、バグダードという大都市で軍事力の行使に制限があったために失敗に帰したと評価できるように思われる。この成功・失敗例を見ると、今回の増派の内、より大規模なバグダードにおける増派は、後者の失敗例に近いように思われてならない。増派が成功を約束するのではなく、戦略的目標と作戦の環境が重要であるようだ。
新政策成功のカギは、イラク政府の決断にかかっているのかもしれない。マーリキー政権がこれまでに実施している掃討作戦は、主としてスンニー派武装勢力と呼ばれるものに対してであった。イラクの治安を回復するためには、宗派・民族に捉われず、民兵の武装解除を実現し、国民のイラク政府に対する信頼を回復する必要があり、この内政上の制約を克服して米軍と連携できるかが重要であろう。現在行われているようなハイファ通りにおける掃討作戦のように敵が限定しやすい戦闘は、バグダードではそう多くは無い。
サドル勢力がしばらくおとなしくなる一方で、マーリキー首相は宗派・民族にとらわれない掃討作戦を言明、バグダードにはクルド主体の部隊が展開されるとの情報がある。また、シスターニー師がムクタダー・アッ=サドルと会談し、武装解除を警告したようであり、変化の兆しは見える。しかし、指導力の欠如を指摘されてきたマーリキー政権が、粘り強く自らの政権基盤を危うくしかねないこの努力を継続できるかが注目されるところである。
掃討作戦がスンニー派にのみ向かうようであれば、宗派対立の根が取り去られることは無く、憲法改正やキルクークの所属をめぐり、スンニー派に妥協する点が決して多くない中で、宗派対立が将来も継続するかの賭けが行われていると言えよう。
11月中の米軍からの前面治安権限委譲については、決して不可能ではない。一部の政権内シーア派勢力は早期委譲を主張してきたが、この背後には、米軍の指図を受けずに自分たちに抵抗する勢力を徹底的に掃討・取締りを行いたいとの宗派主義が存在することに注意すべきである。宗派対立の根が残るままに権限委譲が行われれば、事態は深刻なまま推移しよう。
イランの関与については、より問題かもしれない。シリア以上にイランは、イラクに対する影響力を保持している。ISG報告が指摘するようにイランがイラクを安定する能力を持っているとは思わないが、イラクを不安定化するに十分な能力を有していると思う。このような中で、イランはイラク政策を検討する上で重要だが、ブッシュ大統領は、イランを関与させるのではなく、新たに空母部隊を派遣して圧力をかけつつ、イラクに悪影響をもたらさないよう圧力をかける手段を選択した。そもそも、イラクが安定すれば、イラク領内から米国がイランを攻撃するかもしれないとイランが考える限り、米国のイラクの安定に向けた政策にイランが協力するはずもなく、このような政策は誤りに思われる。
ブッシュ大統領の新イラク政策は、このように新味に欠ける一方で、イラク政府に対する他力本願的な色彩が強い。来年には大統領選挙年が開始され、今年も後半に差し掛かると政権のレイムダック化が顕著になる恐れがある。イラク政策の変更が現実味を帯びた状況の改善につながらなければ、現政権下でイラク問題が解決することはなくなるかも知れず、それは冷戦移行の米国の対中東戦略にとって大きな汚点となる可能性がある。