イラクの治安状況
平成21年7月5日
大野元裕
概観
イラクの治安は改善傾向にあると言われて久しい。事実、最悪のころよりも死者数は10分の1程度にまで減少している。その他の様々な指標も治安の改善を示しているが、それでも月に200人程度が死亡している状況をもって安定したとは言えないであろう。
グラフ1:テロ・戦闘による死者数表
上述のグラフは、ブッシュ大統領が大規模な戦闘が終了したと述べた、2003年5月1日のいわゆる「終戦」から、最近までの死者数の推移を筆者がまとめたものである。治安事件の状況は、以下の4つのフェーズに大別できそうである。
(1)戦後の混乱期(イラク戦争~2003年6月頃)
戦争による混乱は、北イラクのクルド地区以外のほとんどの地域に拡大し、これらの地域で誘拐、略奪、殺人等が拡大した。しかしこの状況は2003年6月頃までには終息する。
(2)スンニー派地域におけるテロの蔓延(2003年中ごろ~2006年5月頃)
戦後の混乱期における典型の不安定状況が下火になる中、特定の地域に不安定な状況は集中する。このころには、ブッシュ大統領により「諸悪の根源」とされたサッダーム政権が排除され、同元大統領が拘束されても事態が変わらないことは明白になってきた。イラクの戦後において力を結集できず、戦後体制から排除され、さらには米軍等の攻撃の対象となったスンニー派が多数住む地域において、組織的抵抗運動が発生した。またこの混乱に乗じ、反米を掲げるテロ組織がこの地域に浸透した。アンバール県を筆頭とするこれら地域では、米軍や多国籍軍を標的としたテロ攻撃、イラクの治安部隊に対する自爆テロ、誘拐等が多発した。同時期、米軍は掃討作戦を頻繁に実施した。毎回の作戦の後半には、米兵の死者が減少する一方で、イラク人の死者数が増加し(上記グラフ1で棒グラフが構成する「谷」の時ほど、イラク人死者数が跳ね上がる傾向に見て取れる)、作戦が終了すると混乱が再開するパターンが定着した。テロリストは、弱い部分をつく戦術を採ったようであった。
(3)宗派・民族対立の拡大(2006年中ごろ~2007年8月)
スンニー派テロ組織の活動がやや下火になる中、より深刻になったのは、宗派・民族対立であった(イラクのアル=カーイダ等のスンニー派系の狂信的武装集団に典型的であった自爆テロの件数は、2005年をピークに2006年中ごろには3分の1に減少した。http://homepage2.nifty.com/saddamwho/HP/__HPB_Recycled/ssmay.pdfを参照)。イラク政権の行方が見え始める一方で、自ら以外を全否定する傾向の強いカーイダのようなテロ組織は、活動基盤を縮小させた。さらに、スンニー派勢力に武器や資金を与えてテロ組織に対立させる、後に「サフワ」と呼ばれる運動は、これらテロ組織を追い詰めた。しかしながら、地方への権限移譲、中央政権の失政と軍や治安機関の能力欠如は、宗派並びに民族を軸に安全を維持し、利益を追求する構図を拡大させ、宗派・民族対立は深刻なものになっていった。
下の表はイラク人死者数を地域別(クルド三県を除く)・時期別に分けて示したものである。上から地域は、首都バグダード、スンニー派の多い三県、北部の多宗派・民族居住地域、南部の都市バスラ、そしてその他のシーア派が多い地域である。また横軸は、最悪の治安状態であった2006年末から翌年2月から治安権限移譲後の2009年1月以降にとってある。
表1:イラク人の月別・地域別被害者数比較
06年10月- 2月上旬 | 07年2月下旬- 8月上旬 | 8月下旬- 08年2月 | 2008年3月 -4月 | 2008年5月~2008年末 | 2009年1月~5月 | |||||||
バグダード | 1619 | 964 | 337 | 371 | 185 | 107 | ||||||
アンバール、ディヤーラ、サラーフ・ッ=ディーン | 468 | 499 | 327 | 410 | 137 | 89 | ||||||
ニノワ、キルクーク | 201 | 396 | 173 | 169 | 146 | 99 | ||||||
バスラ | 47 | 64 | 46 | 89 | 13 | 4 | ||||||
その他(シーア派地域) | 290 | 224 | 105 | 238 | 61 | 41 |
2007年2月に米軍が増派され、大規模かつ長期的な掃討作戦が実施されると、主たる作戦実施地域(表1の黄色部分)では改善が見られたが、それ以外の地域では死者数は増加傾向にあった。大規模な掃討作戦ではあったが、弱い部分に逃げ込むテロリストの行動パターンは変わらず、作戦の効果は限定的であったと言えよう。
(4)2007年8月下旬以降
2008年8月下旬以降は、地域により異なるものの、相対的に治安が改善している。この時期に起こった最大の出来事は、8月29日のサドル勢力による一方的停戦であった。宗派・民族対立の一方の主役であったこの勢力の停戦は、劇的な変化を生みだした。また、それ以前の不安定の最大の問題が宗派・民族対立であったことを証明したのであった。その後、2008年3月のバスラ危機でサドル勢力と政府および政府に近い民兵との間に不安定な状況が生まれ、シーア派が多い地域で死者数が跳ね上がったが(表2の青い部分)、この不安定を制した後は、5月10日の停戦成立によりマーリキー政権が力を示すと、その後の治安改善傾向は継続した。
現況および今後
暫くの間、治安の改善傾向が継続してきたことは事実である。また、たとえばバグダードでは営業を再開するレストランも増加し、夜間の人々の交流も増え、人々の間に治安回復に向けた確実な手ごたえも見られるようになってきた。2009年初頭の米軍からイラク治安部隊への治安権限移譲後を契機に、大幅に治安が悪化する様子も見られなかった。
表2:イラク軍および治安部隊数の推移[i]
米軍とイラク当局は、イラク治安部隊の能力を高め、段階的に権限を委譲し、多国籍軍の任務を終了させる方法を選択した。両国で合意された治安協定が定めるスケジュールのペースに議論はあろうが、イラク軍・治安部隊の能力は一定のレベルに達し、部隊員数は目標値の50万人を上回った。イラク治安部隊は、すでに弱体傾向を見せていたカーイダ等のテロ組織を掃討する作戦を実施するに十分な力を有していると言えよう。米軍の撤収に伴い、米軍兵の死者数も減少傾向を継続するであろう。その一方で、治安事件は散発的に継続するはずである。活動基盤を縮小させ、組織時代も縮小していると考えられるテロ組織やバアス党の残党ではあるが、彼らは、過去の経験から習熟した、より巧妙な手法でテロを繰り返している。大規模な死者をもたらす自爆テロは減少したが、彼らは、テロ組織側にダメージの少ない仕掛け爆弾(IED)による攻撃を選択しつつも、効率的に多くの死者を出す標的を選択しているようだ。
米軍の都市や町からの撤収を前にした6月に連続して発生した治安事件は、その典型であると言えよう。彼らは、移動の自由を確保しやすいバイクにIEDを仕掛けて、宗派・民族対立を煽りやすい宗派・民族感情の強い標的を選んで攻撃している。現時点では、主として標的となっているシーア派側の武装組織による報復はほぼ自制されている。しかし、再び宗派・民族対立に火がつけば、彼らの間に入るべき米軍はいくつかの基地に撤収している。イラクの治安部隊を正面からつぶす能力を欠くことを自覚しているからこそ、かつてイラクを最悪の状況に追い込んだ宗派・民族対立の再来を、テロ組織は望んでいる。だからこそ、今後のイラクの治安は、内政の推移にかかっていると言えよう。今後は、クルド地域における選挙、民族ナショナリズムに直結する石油法の採択、キルクークの帰趨、来年1月の総選挙等、脆弱なイラク内政を揺さぶりかねない問題が山積みであり、年内の政治状況は、今後のイラクを決定づけるかもしれない。